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~個人戦~ ライトノベルの限界と将来性

~個人戦の部~
ライトノベルの限界と将来性


読者の皆様はライトノベル(以下ラノベ)についてどのようにお考えでしょうか? 
一般的な傾向として、ラノベに対しては否定的な意見が多いようです。

ではラノベに関する否定的な意見はどうして出てきているのでしょうか?

まずは「ラノベは子供の読み物」というような一種の偏見があると思われます。
「ラノベは子供の読み物」――というのは多少大げさな表現かもしれませんが、「ラノベは程度の低い娯楽作品に過ぎない」とすればどうでしょう? 
確かに出来の良いラノベであってもその文学性は低いと言わざるを得ないと思います。
修辞技法や、作品のテーマ性、プロットの精巧さ等で、ラノベがいわゆる純文学(ここでは興味本位の大衆出版ではない作品のこととします)に勝るとは思えません。

次に、ラノベから想起されるものとして「オタク文化」があることだと考えられます。
ラノベとオタク文化は切っても切れない関係にあると言えるでしょう。
そのことは、他のジャンルに比べて、挿絵の良し悪しが売り上げに大きく左右される(挿絵だけで買うか否かを決める“イラスト買い”が多いため)ことや、ヒットした作品が高確率でアニメ化されることからも自明であると思われます。
どうもこのオタク文化というものは一般の人々にとって異質で、理解し難い物であるようです。
このことからラノベの否定的イメージに、オタク文化が一役買っていることは間違いないように思われます。
この二点を踏まえるとラノベにはいくつかの限界性のあることが見えてきます。

第一に、やはり文学的にみて素晴らしい作品はできにくいと言う事です。
どれほど出来の良いラノベであってもその文学性は低いと言わざるを得ないと思います。
ラノベの書き手が意識する読者層は10代、20代です。
ですから複雑な修辞技法や比喩を使い、読むほうにもそれなりの力量を要求する純文学よりも、読みやすさを重視する内容の方がニーズに合っているのです。
その結果必然的にラノベの方が作品の文学性は劣ってしまうのは仕方のないことです。

第二に、いくら注目されようともマジョリティにはなり得ないという点です。
ラノベとオタク文化が密接な距離を保つ限り、どうしても多くの人々にとって縁もゆかりもないものとなってしまいます。
オタク文化やラノベに対して一般大衆が理解を示さない限り、ラノベは一部の特定の人々にしか読まれることはないでしょう。
もっとも現在では、ラノベの中でも一般文芸として鑑賞するに足る作品を、一般文芸として売り出す動きもあり、こうした動きが広がれば、ラノベに対する一般の理解が増えるかもしれません。
(その場合、もはやライトノベルというジャンル分けが無意味になるかもしれませんが……)
 
ここまでラノベの限界性を述べてきましたが、それではラノベの長所はなんなのでしょうか? 
それはなんといっても読みやすさでしょう。
ラノベは10代、20代がターゲットとあって、気軽に読める分量の作品がたくさんあります。
また、登場人物の心情等をぼかさず、簡易な表現で正確に描いてくれるので読者の読み違いを防いでくれます。
またラノベは導入部のインパクトが大きい作品が多くみられます。
原因としては、一般に読書に対してすぐ飽きの来る10代、20代の読者のために、小説の世界観にいち早く触れ、おもしろさを感じ取って欲しい、というものがあるからでしょう。

以上がラノベの限界であり長所であります。
ですがここで僕が言いたいのは、そもそも大衆向けの作品を純文学と同じものさしで評価すること自体に無理があるのではないか、ということです。
何故なら、ラノベは娯楽思考を目指す者であるため、文学性といったものは元からあてにされていないからなのです。
文学を読む場合は文学性を求める、それは当然のことです。
何故なら文学というのは文学性が必須なのですから。しかしラノベは違います。
ラノベには娯楽性こそが重要なのです。
ですからラノベには、娯楽性をこそ求めて読むべきではないでしょうか。
少なくともラノベに「文学性が無い」と言って批判するのはお門違いであると思われます。

そういう点では、ラノベはまさに娯楽のための小説ですから、当然娯楽作品として優れたものをもっていると思われます。
何か新しい本が読みたくなったときや、読書はちょっと苦手だという皆様には、最初の数ページだけでも読んでみるのはどうでしょうか。案外、面白く感じられるかもしれません。
食わず嫌いならぬ“読まず嫌い”になって、貴重な出会いを失うことは大変残念なことだと思います。一度、自分の苦手なジャンルの本にも手を出してみるといいことがある……かも?


(ひつじさん)
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~団体戦~ 『孫子』

~団体戦の部~
GWに読みたかった本!



『孫子』 金谷治著 (岩波文庫)

GWに読みたかった本ですか……。
今や我ら53期は受験生なのだから、GWなんかないっ!
こんなことをGW中「古本祭り」に入り浸り、5日にいたってはグリー部の同窓会に行ってた人間が言っても説得力皆無ですね。
すいません本題に入りましょう。
皆さん何か小説ばかり紹介しておられるので完全に浮いちゃってますがここはあえて空気を読まずに『孫子』でも薦めますかね。
受験の裏ネタ(?)もからめつつ。

恐らく、本校では中二から古文なる授業が始まり、中三か高?で漢文なる授業が始まるわけですが、この波に乗れる人もいれば、乗れない人もいるわけです。
ちなみに私は始めは乗れない人でしたね。
考査の度に「古文とか今頃どこの誰がしゃべんだよっ、ケッ!」とか「中国語が読めたらどうなんだよっ!」とか愚痴をこぼしては親にたしなめられるという生活が続いていた訳ですね。
で、これじゃあ「本紹介」じゃなくて「自己紹介」じゃねぇかという突っ込みが来そうな訳ですが、もう少し御辛抱を。
まぁ、成績的に軽く無死満塁(ノーアウトフルベース)じみた危機を迎えていた訳ですが、この『孫子』のおかげで、ホームゲッツーを取れた訳です。
抽象的すぎますよね……。具体的に話します。
基本古文・漢文が苦手になる理由は「パッと見、やる気起きない」からですよね。
しかし実はこれが笑えるくらい見かけ倒し。
何と、この『孫子』なる本には原文(漢文)、書き下し文(古文)、現代語訳の3つが収録されているんですよ。

『孫氏』そのものが人生にいろいろな示唆を与えてくれるので、普通に読み進めて行けます。
「戦わずに勝つ」や「己を知れ」なんかの考えは皆この『孫氏』から来ているものですしね。
んで、その途上、漢文や古文の部分を読んでみるんですね。
すると、現代語訳で読んだ分、古文や漢文も大雑把に意味が取れる訳です。
後はこれを繰り返せば、古文・漢文の苦手意識は消えてなくなるんですよ。
苦手意識さえなくなればしめたもの。
古典の中身は現代文より遥かに簡潔だと言う事に気付くのは時間の問題です。
そしたら、勉強の歯車が上手く回って、成績は普通に伸びて行きますわな。
私はこうしてどん底から這い上がり、今や模試で普通に8割、9割取れます。
高?から漢文の授業で起きていた記憶があんまりないんですが(笑
まぁ、信じない方が多いことでしょうが、ダメ元でやってみるのも一興。
やるかやらないかはあなたがた諸君の裁量次第ですね。


(岩村)

~個人戦~ 舞城王太郎は「愛」を語る

~個人戦の部~
舞城王太郎は「愛」を語る


皆さんは舞城王太郎という作家についてどれくらいご存じだろうか。
舞城王太郎は2001年に『煙か土か食い物か』という作品で第19回メフィスト賞を受賞し、以後文学界の“奇才”として活躍している小説家である。
そう、紛れもなく“奇才”である。
彼の文章はどこまでも真っ直ぐで濁りが無く、あらゆるものを曝け出している。それは明らかに、明治時代から築かれた文学観に逆行する。
則ち、「テーマをひた隠しにし、あえて曖昧にすることで芸術性を醸し出す」のが後者であるならば前者の舞城は「テーマを明確に示し、かつ結論も明確に示す」ということをやっているのである。

例えば一例を挙げてみよう。
――僕は本当に起こったことは書かない。僕が書くのは起こりえたはずなのに起こらなかったこととかそもそも起こりえなかったからやはり起こらなかったことだけだ。 そういうことを書きながら、実際に起こったことや自分の言いたいことをどこかで部分的にでも表現できたらと思っている……というより願ってる。だからやはり賞太は間違っている。僕が見たものは僕が書かないものなのだ。柿緒の死はそれが実際に起こったようには書かない。

これは芥川賞候補作にもなった『好き好き大好き超愛してる』の一部である。
この部分は『好き好き大好き寵愛してる』の二大テーマである《愛》と《小説》のうち、後者についての結論部分である。
作家として登場する主人公が、自分の作品は「恋人の死を小説の題材としてとらえている」と恋人の弟に指摘された後、主人公なりに解答を得た場面だ。その語りは饒舌で、読者を魅了する。
(ちなみに本書は『世界の中心で愛を叫ぶ』といった、いわゆる“恋愛もの”にたいして警句を発している本でもある。それがもう一つのテーマ《愛》の部分。「恋人が病気になって死んで主人公が悲しむ」という“メタ化”された設定を皮肉っている。)

もう一例あげてみよう。
――我思うゆえに我ありって言うけれど、もし自分と他人がどっかでくっついていて、相手の内側にお互い入ってこれたりするんだったら、ホントに我思ってるの?ってことになる。我思ってるつもりで、実は別の誰かが思ってることもありえる訳だから、我思ってると我思ってるけど、我思ってるんじゃなくて彼思ってるのかもしれない。じゃあ我ありってことにならない。

こちらは三島由紀夫賞受賞作『阿修羅ガール』の一節である。
世界で居場所を見つけることのできなかった主人公アイコが、“臨死体験”・“己の負の人格の自覚”を通して得た“世界”に対する一解釈である。
こういったテーマに直結する哲学的な言葉をストレートに、包み隠さず語るのが舞城王太郎という作家なのである。

そしてそれは決して誤読を許さない――

舞城王太郎の文は読んでいてホッとするものがあるが、これは「誤読を許さない」の裏返しにある「多くの人に理解できるように」という「解りやすさ」があるからなのだろう。
そしてそれが則ち「愛」なのだ。
ここに舞城王太郎の文学観が伺える。
つまり「今までの小説では読者にメッセージは伝わりにくい。もっと明確に示すべきだ」というものである。
しかしだからといって、「芸術的価値」が劣るわけではない。
舞城王太郎の小説は今までの文学同様、何度読み返しても斬新さを感じ、また読み返すほどにテーマの奥深さをより理解できる作品になっている。
「真っ直ぐな言葉を使ってなお、テーマに奥深さを感じさせる」舞城王太郎はやはりただ者ではないのだろう。

もっとも、問題点が無いわけではない。
それはどことなく「自己完結感」が漂っていることである。
舞城の作品のどれもが一人称小説であり、その中で主人公は必ず何らかの解答を得るのだが、それがやや独りよがりな感があるような気がするのだ。
読者はこれにより置いてけぼりをくらう。
自分と主人公を重ね合わせにくいからだ。
そして結果として共感できないと言った事態が起きかねないからだ。
「誤読を許さない」ながらも「共感できない」とは何ともミスマッチではないか。

今後、舞城はこの問題点を取り除き、もしくは上手く利用し(おそらく舞城なら後者を選ぶだろうし、私もそう願う)、進化していくのだろう。
村上春樹の例に漏れず、賞賛されていたのに芥川賞落選という、皮肉にも喜ばしいことがあったので、将来日本を牽引する大物作家として成長することを切に望む。
そしてそれまでは、温かく一信者として応援したい。


(BMIS)

~団体戦~ 『幸せの書―迷探偵ヨギガンジーの心霊術』

~団体戦の部~
GWに読みたかった本!


『幸せの書―迷探偵ヨギガンジーの心霊術』 泡坂妻夫著 (新潮文庫)

この本はいわゆるミステリーに分類されます。
名探偵が出てきて(実際には迷探偵だけど……)、とある怪しげな信仰集団に隠された謎を解決するという、最近ではよく見られる名探偵VS信仰集団という形を取っています。

正直言って、小説の中身はたいした話ではありません。
いや、小説だけでなく中身の推理要素もたいしたこともありません。
では何故そんな本を薦めるのかというと、本書の最後の3ページで明かされる驚愕の真相故なのです。
もちろん推理小説ではネタバレは御法度。
ですからここでは明かすことができません。

ですが、今まで僕も沢山推理小説を読んできましたが、これほどまでにジャンル分け不可能なトリックは類を見ません。
普通トリックは“機会トリック”、“アリバイトリック”、“密室トリック”、“叙述トリック”、etc...といった分類に九割九分九厘位の確率で分類することができます。
ですが泡坂さんはみごとにその網をかいくぐり、一厘というレアトリックを作り上げてしまいました!
泡坂先生、この驚愕をどこへやったらいいんでしょうかw


(N)
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